みのかんの銀塩カメラ研究室キャノンAF一眼レフ&レンジファインダ−>キヤノデ−トE
Canon キャノネット


キヤノン、初めてのレンズシャッタ−
高級カメラから大衆カメラへ

打倒ライカを目指していたキヤノン。しかし昭和33年頃、キヤノンはこのままでいいのかという疑問が持ち上がる。いままでは高級機をわき目も振らずに突き進んできたキヤノンが、作れば売れるという時代から売れるものを作らなければという変換期を迎える。
一方、入社したての新入社員技術者の間で、キヤノンのカメラはどれも高級機すぎて4.5ケ月の給料を丸々使わなければ買えない。せめて初任給程度で買える普及機がほしいという希望があった。この希望と熱意にこたえて、当時の技術部長は、経営トップの決断も得ずに、試作機を完成させる事に許可を出す。試作機一作目は、露出計を組み込んでいなかったが、2作目ではEE機構を組み込んだカメラを完成させた。
一方この時期に、オリンパスがEE機オ−トアイを発売。キヤノンはその欠点を補うべく、ストロ−クの短いEE機構を採用。完成させた試作機は経営トップ陣の絶対的な賛同を得て、商品化が決定した。

独占禁止法違反の疑い
昭和35年8月、新製品は発表された。発売価格は50mmF2付きで価格は2万円を割ると発表。これは当時の価格としてはとんでもなく安く非常識と業界内で騒然となった。しかたなく発売を延期。
その挙げ句に公正取引委員会より独占禁止法違反、安価タ゜ンピングの疑いもかけられたという。
週刊誌にも「くたばれキャノネット」というすごい見出しで取り上げられた。だがこの記事はタイトルとはうらはらに好意的なものではあった。
そしてついに昭和36年の1月、Tv優先EE、マニュアル可、45mmF1.9付パララックス自動補正、距離計連動カメラが発売された。価格は18800円。

若い新入社員の熱意が会社を動かし、結果的にキヤノンの会社を救ったということでは、企業史としては歴史に名前を残す快挙ではないかと僕は思う。そして新入社員の希望をいれて、トップの承諾なしに試作機に踏み切った技術部長の決断。この当時の技術部長に僕は敬意を表したい。

(以上はクラシックカメラレビュ−No31、キャノンハンドブックを参考にしました)

みのかんのキャノネット

このカメラは2台ある。一台はジャンク2台の合体である。セレンのジャンクとボディのジャンクを合体させたもの。もう一台はネット仲間の津南物語さんから譲っていただいたもの。
一台目は後期型のASA400までのもの。譲っていただいたものはASA200までの前期型である。
分解してみると、この2台は感度だけでなく中身のEE機構も微妙に違っている。
いろいろな資料を調べると、初期型は故障が多くて、徐々に改良を加えているということである。
試写してみると、僕の持っているのは2台とも調子がよく、写りもいい。ただ当時のEE機構、セレンによる針の触れが遅く、すばやく輝度の違うほうへ向けると、針の触れが間に合わず露出アンダ−もしくはオ−バ−となる。その辺はご愛嬌、なにしろ初期のEE機構である。
トリガ−の巻き上げが面白くて横位置では思ったより使いやすいが、縦位置ではやはり、やりずらい。案の定この後のモデルでは一般の巻き上げに変わっている。

 

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